はじめて綴る、3.11の東京ディズニーランドで体験したこと
あれから7年。
もう7年
まだ7年
いろんな考え方があると思う。
あの日私たちはいろいろな場所でいろいろな事が起きた。
風化させてはいけない。でも綺麗ごとだけではなく何ができるのか。
チャリティー系にもいろいろ参加したり、募金したりしてきたけれど
7年たっても変わらない現状、変わっていく現状、
変わらない想い、
募る想いに薄れる想い。
毎年書こうかこうとおもいつつ、綴るたびにいろんな想いでいっぱいになり断念してきた
わたしの2011.3.11。
今年こそは書こうと思います。
(当時わたしは東京ディズニーランドの園内にいましたので、ディズニーでの話です。事実のお話なので、ご理解のある方だけ読んでいただければ幸いです)
片岡家の2011年3月は引越しの真っ只中。
わたしが生まれる前、父が独身の頃からの一軒家だったため歴史もまぁまぁ古く
初めての引越しに先の見えない荷造りやゴミ捨て。
もともとモノが多い家でもあり、さらに両親の歴代の原稿用紙やら連載雑誌やら資料やらなんやらあり整理できるどころではなく作業をしてもしても終わりのみえないてんやわんやの毎日でした。
(父の部屋にはマングースとハブの剥製まであった…たぶん引越しのときにお捨てになられたかと…今思えばマニアな人にとっては貴重だったのでは…)
そんな中、わたしはディズニー大好きっ子。年間パスポートは2010年春から2016年まで所持しておりまして、2011年は半年間東京ディズニーシーのみの年間パスポート所持に我慢ができず、年明けごろに重複しつつも東京ディズニーランドとシーの共通年間パスポートのダブル持ち。
時間さえあれば(なくても)舞浜まで通っていました。
埼玉のわりと田舎(JR通らず)からドアtoドア往復3時間かけてました。好きなことにはフットワークが軽かったです。
そんな3月11日。当時のブログをみると
「今日は予定無くなったので
出かけてきまーす★」
とかいてありました。(当時のことを思い出すために過去の別ブログを見ています)
朝7時のブログなのでめずらしく早起きして、そのままわたしは東京ディズニーランド(以下:TDL)に行きました。
一人です。ちなみに、わたしの当時のディズニースタイルはほぼ一人です。一人インしていました。(年間パスポート所持者には珍しくないことです。現地にいくと知り合いに会ったりもしましたし、同じ年間パスポート所持の友達と現地で合流したり、気ままに楽しめます。おすすめ。慣れるとさみしくないです。)
ちなみにこの時点では両親におそらく「ちょっと出かけてくる」くらいで、行き先は告げていませんでした。
3月18日まで開催だった「ドナルドのファニーハーモニー」というお城の前のイベントを見ておらず、それ目的で行きました。
当時このショーは2回開催でした。1回目をみて、そのままエリア内で違う場所から2回目も待機。
当時のカメラにはWi-Fi機能は内臓されておらず
わたしのカメラの愛機はRICOH CX3のみ。ブログにはモニターを写した携帯(ガラケー)写真がいくつか載っていました。
およそ13時の時点で
「ワンマンズ・ドリームⅡも当たったので
(当時のブログより)
(ファニハ:ファニーハーモニーですが、おそらくフィルハー:フィルハーマジックというアトラクション と間違えていますねわたし)
わたしは基本的に3月の東京ディズニーリゾートには行きません。理由は春休みでとっても混んでいるから。
それでも行ったのは、やはりなにかの因果でしょうか。
地震発生時にわたしはシンデレラ城の前のパレードルートの鑑賞エリアに地面に座って待っていました。
14時46分18秒 ちょうどホーンテッドマンションのとなりの場所からパレードルートが出てきて間も無くほどでしょう。
そのときのわたしの気持ちは鮮明に覚えています。
大地を揺るがすほどの振動。本気で思ったのは「あ、地球が大変なことになった」と。ポールにかかっている花の飾り付けは左右にゆっさゆっさ揺れて
木々にとまっていた鳥たちが一斉に飛び立ちました。
現実なのか現実でないのか、わからなくなる程、
地面の振動は凄まじかったです。(お尻をつけて座っていたから尚のことかもしれません)
立ち上がる人や、座る人、泣くこどもに、「えっやばくない?」と話すグループ
いろんな人がいましたが、わたしは一人。
えっどうしよう。どうしたんだろう。やばいのかなぁ。なんだなんだ…
いろんな気持ちが一人の脳内で反芻し続け、どうにもできずにとりあえず様子を伺うだけで精一杯。
この状況で撮るのは不謹慎かなと心の中で感じつつも、でも撮らないと伝えられないと思い、CX3で撮っていました。
地面に座り、動かないようキャストさんがアナウンスしているところです。
14:58の写真です。
しばらくして、移動しつつ、地震がおきたことのアナウンスがこの時から定期的に流れるようになりました。
まずとっさに頭にうかんだのかトイレ問題。
TDLの中にトイレはたくさんあるものの、何万人もの人が一斉にトイレを求めたら大変だと感じ、近くのトゥモローランドのトイレに向かいました。変な話、尿意はまだなかったけれど、急を用してから並ぶのはきっと地獄絵図になるだろうと感じ、行ける時に行こうと思いました。
その行動は正しく、かなりの行列でした。
急いでいる人を優先しつつ、譲り合い。
今までTDLのトイレで並んだことないくらいのトイレ列でしたが、そんなに時間はかかりませんでした。
次に心配になったのは連絡。
当時はTwitterやブログで近況を書き込んだりコメントをいただいたりしてだいぶ助けられましたが、みんな一斉に連絡しているからか繋がりにくいこと…。。
リロードしては様子をみて、そして繋がる状態だったと思います。
ですが電話が繋がらない。
この日は金曜でしたが、なんとわたしは次の日宇都宮に2泊の出張だったのです。
当時小さいタレント事務所に入っていたのでマネージャーに連絡しないといけない。
そういえば親にわたしがTDLに居ること言っていない!!
携帯の電池が切れそうななか、わずかな余力で電話帳の電話番号を手帳に書きました。念のため仲のいい友達の電話も何件か。デジタルだけだとこういう時電源がないと何もできなくなるなと痛感しました。
普段はほとんど見向きもされなくなった公衆電話にも長蛇の列。トイレの次はここに並びました。
まずは仕事の確認でマネージャーに電話。無事でした。そして電車が動くか分からないので出張はキャンセルになりました。
しかし実家に繋がらない。親の携帯にも繋がらない。(16時)
16時07分のブログにこう書いていました。(一部変更あり)
「地震…かなり大きかったです(;_;)
舞浜、マグニチュード7.9
揺れかなりありました。
何度か地震きてます…
まだ余震が怖いです
リゾート内、閉鎖的になって地面にみんな座るようアナウンスされてます。
京葉線も武蔵野線も止まってます…
帰れない…(´;ω;`)
お城を背にしたパレードルートでジュビレーション待ちしてたので、わたしが居た場所は安全ですが…
かなり揺れを感じた
このあとどうなっちゃうんだろ…
早めに帰る予定だったから
雨具ないよ
寒いよ
帰りたいけど
完璧足止めになりました
実家も両親も電話繋がらないのが心配…
電話がだめなだけ!?
一人、心細いです」
残量の減っているガラケーで投稿していました。
昼間は最初の写真の通り青空だったのですが、夕方から雨がパラついてきたのです。
3月といえば、昼間と夜の寒暖差が大きく、この時のわたしもコートをきていました。(オシャレに薄着でなくて本当によかった…)
トイレと公衆電話があり、さらにぱらつく雨をしのぐために
屋根のあるパンギャラクティックピザポートの周辺でじっとしていました。
ここにいるゲストは多かったです。
というのも、建物の安全が確保されないので、室内での待機はNGでした。
寒さとの闘いです。
雨がパラつく風に吹かれて身体は芯から凍えてきます。
建物の中には入れないけど、建物側にみんな寄り添ってうずくまりました。
しかし余震が起きるたびに屋根の無い場所まで出てこなくてはいけず、その移動が本当に辛かった…。
そしてインターネットでほとんど情報が拾えないなか、「14時46分ごろマグニチュード◯◯の…」というアナウンスが入りますが(この◯◯はだんだん数字が変わっていきました)、だんだん「またそれかよ!他の情報はないのか!」という罵倒が出てくるようになり。
寒さと、どうにも動けない現状とで、その当時はみんな心が荒つつありました。
もうなんどもTVで報じられているので知っている方も多いと思いますが
キャストさんが奥からダンボールやショッピング袋や黒いゴミ袋にエアーキャップなどの資材をたくさん持ち出してきてくれ、
ゲストは
大きなショッピング袋の底などに穴をあけ、首から頭を通して胴体をくるんだり、
エアーキャップは関節に巻いて骨周りを保温したり、ダンボールを身にまとって風をしのいだりしていました。
時折強い風が吹き、そのたびどこからともなくポップコーンバケツがコロコロ何個も転がってました。でもみんな、そのバケツを取りにいくよりも、風を受けずに身体の暖を守ることを優先していました。
ダンボールも風で飛んできていましたが、誰がキャッチして自分の纏としたり
こういう時に人間性は出てくるものだなぁと思ったりしていました。
(一人なのでいろいろ考えてしまうのです)
こんな状態が何時間もずっとでした。
20時00分のブログにはこう書いてありました。(一部変更)
「地震発生から5時間以上。
まだパーク閉鎖中です。
建物は安全確認とれていないからずっと外です(;_;)
風が…
ゴミ袋とか段ボール、みんなで分け合ったりしてます。
本気で寒い…
公衆電話で両親とは連絡とれ、部屋はめちゃくちゃだけど無事だそうです。
公衆電話も40分くらい並びました…。。
野宿かも って、回りのゲストもゆってます。。。
家に車あればなぁ…
隣にいた中学生とかは、親が迎えに来たとかで行ってしまった…
道路とかどうなってるんだろ。
電池がラス1なので、ずっと携帯電源おとしてました
メールくれた友達、地元友達、ありがとう
体が震えてやばいです。。
みんな辛いです…(;_;)
今日どうなっちゃうんだろう。。」
建物近くで風をしのいでいた際に近くにいた女子中学生たちは「あっパパが車で迎えにきてるって!行こう!」といってその場で立ち上がって去って行きました。
内心「いいなぁ」と思っていました。車で向かってきてくれている、親と会える。
ただ、彼女たちがその後どうなったかは全くわかりませんが、そのころの葛西臨海公園からの道路は閉鎖状態で機能していなかったそうです。。。
たまに繋がるインターネットを頼りに周りでもいろいろな噂が飛び交いました。
「ディズニーランドホテルが無料解放しているらしい!」というデマ。
このデマにのせられて、宿泊予約をしていないゲストが何人か安全な園内から旅立ってしまいました。
キャストさんはしきりに「このパーク内は安全です!みなさん、もう少しこのままでお待ちください」と言っていました。
が、やはり建物の中で暖が取れずに凍えた状態でいつまで待てばいいのか分からない状態でいるのは心にもよくなく。
反発して行動をおこして立ち去る人も少なくありませんでした。
※この時、舞浜の外がどんな大変なことになっているのかは、わたしたちは全く予想もできていませんでした。
この時ブログのコメント欄にコメントがくると携帯のメールで内容がおくられてくるシステムだったので
インターネットでブログにアクセスしなくても読めていました。(ブログの記事もメールで送って投稿していました)
そこでリアル友達からも何件か心配コメントが。そのうちの一人のゆきなちゃんはさきほど手帳に電話番号を書いた一人だったので、安全が確保できた次の日の朝にも公衆電話から電話し、コメント欄に無事を書き込んでくれて、心配してくださっていた方々も安心してくれていました。
インターネットのコミュニティって大切だなぁとしみじみ今も思います。
やく7時間後にようやく余震も少なくなり、安全が確保され、建物の中に入れました。
時間は22時ごろ。
それまでは心身共に辛かったですが、パークにいたので安全は確保されていましたし、なによりこの頃からとても献身的なキャストの皆様に一層励まされました。
まず、帰宅は無理でした。徒歩で自力で帰られる方は割と帰られていきましたが
私は埼玉でしかも最後の路線は宇都宮線。京葉線も電車がよく止まりますが、宇都宮線もよく止まります。乗り継いでも絶対に帰れないのでTDLで夜を明かすことになりました。
寝床を確保するため場所探しと、外ではキャストさんが食料にお菓子を配っていたのでいただきました。
わたしがたどりついたのはここ。
iPodで撮影。ぶれぶれ。
モンスターズインクのスタンバイ待ちのエリアです。みんなダンボールやショッピング袋をしいて、その上に体育すわりか、小さくまるくなって寝転ぶ感じでした。かなり人が多かったです。
その時、隣にいた女子3人組が石川県からきていた高校生くらいのグループ。少しお話しました。「おねえさん一人なの?寂しい!!」って言われました。心細いけどみんなもいるし、って答えた記憶。
その子たちがお菓子3人で1つだったので何かみてくるね!と外にお出かけにいきました。
22時といったら普段は閉園時間。なんだかそわそわ。
シンデレラ城を通過して裏側へいくと、なにやら少しまとまった人数のかたまりが。
キャストさんが「これから東京ディズニーシーへいきます、寝場所の確保が困難な方は一緒にきてください」…というような内容をアナウンスしていました。
今モンスターズインクにいるのだけどとても狭い、他に3人の女の子がいて、その子たちにも声をかけたいと話したら「もうじき出発しますが、狭いのならどうぞお越しくださいとのことで。
あの子達も含めてもう少し広い寝床が確保できるかも!とモンスターズインクまで戻りました。
が、彼女たちは面倒なのでここでいいです〜とのこと。なのでわたしは移動しようかな、と荷物をもってお別れをしました。
そしてお城の裏側へいくと。
あの人たちは居なく、ガラーンとしていたのです。
しまった、寝床を失った!と思いました。戻るわけにもいかず、呆然としてしましました。
メンタルをたもつために写真は撮っていました。
2011年の撮影なので構図など思うことありますが、その時のわたしの写真は大事にしたいので載せています。
誰もいない、ライトアップだけされている動かないキャラバンカルーセル。
とにかく親に今日は帰れない電話をしないと。
ファンタジーランドのピノキオの隣の公衆電話エリアに向かいました。
しかし先の公衆電話で小銭を使い果たしてしまっていたのです。
そして近くのキャストさんに相談しました。
「すみません、公衆電話で親に電話したいのですが小銭を使い果たしてしまったので、両替してもらえないでしょうか?」
すると、「お電話なら貸しますよ!」と言ってくださったのです。申し訳ないなと思いつつも、お言葉に甘え。
場所はプーさんのハニーハントのショップの奥の事務所でした。普段は絶対にゲストは見る、入ることはないエリアですが、お姉さんは快くわたしに電話を貸してくださいました。
向かいながら「お姉さんは今日寝る場所確保できましたか?」と聞いてくださり、状況を話し、寝床を確保しそびれたばかりと話したところ、「ちょっとプーさんのハニーハントとミッキーの家を確認してみます!」と空いているところを探してくださいました。
己の浅はかな気持ちで寝床を見失った自業自得なわたしなのに…優しい…と泣きそうに感動していると、
プーさんのハニーハントが空いているそうなのでご案内します!と連れていってくださりました。
(ミッキーの家についてはノーコメントにしておきます…)
23時ごろ、プーさんのハニーハント ポットに乗る直前のスタンバイエリア iPod撮影
ここはひとりひとりの区画がちょうど柵越しにできていて、少人数でした。
足も伸ばせるほどに場所もありました。
そして、建物の中でもかなり中の空間なので無風で暖かい…
キャストさんのおかげです。
災害用のリバーシブルアルミブランケットもいただき、からだの上にかけて暖をとり仮眠することができました。
キャストさんも眠いでしょうに、私たちと同じ境遇なのに…交代でわたしたちのことを起きて見守ってくれているのです…。書きながら泣きそうです。
暖かい飲み物も用意してくれていました。
お夜食です、とひじきご飯とお茶もだしてくださりました。後でテレビで知りましたが、このひじきご飯は災害用のお湯をかけて15分ほどで作るものだそうです。(水でも60分ほどでできるようです)
本当にお気遣いがたくさんありました。
おかげでわたしは11日の夜を越せました。
朝ごはんは写真は撮っていませんが、たしかロールパンをいただいたと思います。
ダンボールの上に、自分のバッグを枕にしてアルミブランケットを毛布代わりにして寝るのは初めてでしたが、キャストさんたちのおかげで身体の不調などもなく朝を迎えられたのです。
朝8時ごろでしたでしょうか、この時からパークの外側から徐々に閉鎖されていきました。プーさんのハニーハントを出た後、近くのピノキオの隣のトイレで自撮りをしました。
RICOH CX3。予備の電池があったので少し撮影に余裕があったのですね。
3月だけどモコモコのフード付きのコートを着ていた(冬仕様)
手袋も持っていた
ブランケットも持っていた(パークでショーを見る際に防寒グッズ対策などは日常的に持ち歩いていた)というのが日頃から寒い中ショー待ちしていて備えを持ってこられていた成果かなと今思えば感じます。
外を歩いているときはアルミブランケットを腰に巻いてシャカシャカ動きました。
朝8時ごろのパイレーツオブカリビアン前。
当然閉ざされていますが、こういうところに張り紙がされていました。
このような感じで、インターネットが不調&携帯の電池切れで外部の情報の入手ができないゲスト向けに随時交通網の張り紙が更新されていました。
わたしの乗る宇都宮線はやはりやはり復旧されず。
見込み とあったり、 見合わせ とあったり。
モンスターズインクの前でも張り紙がありました。
その前でモンスターズインクのキャストのお姉さんがわたしに「お姉さん一人ですか?」と声をかけてくれました。「ひとりだと心細いですよね。お姉さんにホッカイロあげます!」と、キャストさんも寒いでしょうに貼らないタイプの暖かいホッカイロをくださりました。
せっかくのご好意を断るわけにはいかないのでいただきました。
身体もですが、心が本当に暖かくなりました。
ショートカットの笑顔が素敵なお姉さん、その節はありがとうございました。
その当時のわたしはCX3でお花を撮るのが大好きで、この日もTDLの花壇をみつけては花を撮り、自我を保っていたように思えます。
そしてなによりも、外部の情報は交通網が大変に麻痺していることくらいしか分からなかったのです。
9時ごろ。キャストさんが地面に水でドナルドを書いてくれました(晴れて乾燥しているので蒸発が早い…)
こういう時でも、すこしでもゲストを楽しませようとしてくれます。
ハングリーベアレストランにて。ホットティーをいただきました。
震災がおきてからのさまざまな食事は無償でご提供くださっています。
外側からじわじわと閉鎖されて、でも電車が動いていないので帰宅もできない。完璧に帰宅難民になりました。
ちょこちょこ電車掲示板を見に行っては、帰れないの繰り返し。
そもそも京葉線が動いていないので、ほとんどの人は帰れず足踏み状態でした。
朝9時の切ない背中。ほとんど人がいません。
こんなに人がいないスモールワールドも撮影していました。なんだかこうやって見ると満喫してるじゃんとなりそうですが、この当時お散歩するしかなかったのです。
そして折をみてまた電車案内を見に行くのです。
ピノキオも撮ってた。懐かしいです。
このあたりにお手洗いと公衆電話があります。自撮りをしたトイレはピノキオの背後です。
10時半ごろ。
色が悪いのはご了承ください。
TDLなのに東京ディズニーシー(以下:TDS)限定のギョウザドッグ。おそらくTDSから届いたのでしょう。
(普段からそうなのですが、TDLよりもTDSの方が収容人数が少なく設定されています。基本的にはTDLの方がゲストの数は多い傾向なので、前の晩も寝床確保のために一部の方がTDSへ移動したのです/行き損ねたけれど/おかげでプーさんのハニーハントで寝させてもらえたけれど)
このギョウザドッグはクイーンオブハートのレストランで提供していただきました。
本当に、食に困らない時間を過ごさせていただき、暖を取れ、安全に安心して時を待つことができました。
とても恵まれていたと感じます。
11時ごろ。誰もいない、動いていないアリスのティーパーティー。
クイーンオブハートが閉鎖されたので移動しました。
その後写真はありませんが、ミッキーのフィルハーマジックにいき、シアターが開放されていたので休みました。ここが一番落ち着きました…
シアターなので座席も背もたれもふかふか。薄暗い。暖かい。
ちょっとうとうとしてしまいそう…。
14時すぎ。
キャストさんがシアター内にきて言いました。
「京葉線が再開しそうです!これを逃すといつまた止まるか分からないのでみなさん乗ってください!」
当然ながら、わたしたちゲストが帰らないとキャストさんは帰れない。
やっと念願の京葉線復旧見込みのお知らせ。
急いで支度をして舞浜駅に移動。
14時すぎ、帰る間際に撮影。
ちなみに、ブログを読み返すと、12日は公衆電話の無料開放が行われていました。
3月12日19時34分のブログ(一部)
「いま家到着しました!!
14時すぎに舞浜駅に着き、50分くらい待って、
新木場や有楽町など乗り継ぎ5時間かけて帰宅しました。
写真は、舞浜駅自転車置場です。
コンクリートが溶けて というか、埋立地なので、地盤がゆるんで下から水があふれてる…という感じ。
女の子なら分かるかも、泥パックのにおい。
生々しい泥のにおいが道路に立ち込めてました。
そして。
ニュースの映像を見てびっくりしています。
被災から、いま初めて映像を見たので…
これほどまでに…
いま、母といっぱいお話してます。
人と話せるってなんて素敵なんだろう。。
人は人との繋がりなしでは繋がり生きていけないです。
支え合いやコミュニケーション…。
直接的や、インターネットでも。
blog、ツイッターにかなり助けられました。
みなさま本当にありがとうございます
被災時からすごくすごくお世話になった東京ディズニーランドのキャストさんたち、本当にありがとうございました…!!
時間外だし長いこと、それこそ同じ被災者なのに救助に徹底して下さり私たちを守って下さったことに、感謝してもしきれない
ありがたくて、涙出るのこらえるので本当に精一杯でした。出たらとめどないしね
過言ではなく、本当に…。
風で揺れてるんだか
体が疲れてるんだか
余震なんだか
わからなくなってます…
あの地震のあと、ずっとこんな感じです…」
長い転載ですが、当時の気持ちがリアルに伝わるかなと思いました。
11日にディズニーにひとりで行ったこともそうですが、
もしワンマンのショーの抽選に当たっていなければ
わたしは14時ごろには舞浜を出るつもりでした。
そうしたら、パークの中ではなく、JR沿線のどこかで、帰宅途中で震災を受けることになったでしょう。
抽選がなければ、次の日の出張に向けて早く帰るつもりだったので
安全が保たれた環境で過ごすことはありませんでした。
わたしの友人たちは何人かは数時間歩いて帰宅した子もいます。そんな中、安全に過ごせたのはキャストさんたちが、パークが守ってくれたからです。
いまでもパークを訪れるたびにあのときはお世話になりました、と心で強く思っています。
2011年4月15日にTDLのみオープン再開し、その日は28周年。
開園待ちをし、オープンと共にイースターワンダーランドのパレード待ちに移動。
ワールドバザールの通りながら、キャストさんが両サイドに並びお出迎えをしてくれる中、泣いているキャストさんもいてもらい泣き。(書きながら思い出し泣きしています…)
パークはみんなの笑顔と希望とわくわくが詰まっている素敵な場所。その場所を4月15日の開園記念日にむけて尽くしてくれたことにとても感謝です。(開園時間の短縮や、トイレの手洗いドライのスイッチオフや、いろいろな節電がされているなかでの再開でした。)
TDSはその後2011年4月28日に再開。
たくさんの人に笑顔をまた届けてくれる。
おそろしく長く書いてしまいました。
7年越しにようやく書けました。
初めて公開した写真がいっぱい。
これを書きながらも当時の思いが溢れてきて、やっぱり書ききれないかなとも思いましたが
もしかしたら誰かの心に残ったらそれでわたしは嬉しいです。
追記:当時の引越しですが、家はもともと荷造りやらなんやらでぐちゃぐちゃだったのであまり大きな被害はなく。
わたしの部屋の本棚が倒れていて、そこはもともと父と母の仕事部屋だったので本棚は私のものは一切なく父の資料が。なので帰宅してから3日たっても部屋に入ることができなかったようです。。。